『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』/峰岸純夫/講談社 講談社選書メチエ/1,550円+税
毎年正月には、東京、日野市の高幡不動にお参りに行きますが、古いお札を治めに奥殿横を抜けると小さなお堂があり、上杉憲顕の墳と書かれています。
その案内には「上杉憲顕は氏憲の子、享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原に会戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した」というようなことが書かれていて、室町時代に足利成氏なんて将軍がいたかしら……などと、室町時代に疎い私はずっと気になっていました。
ですが、この本でその意味を知ることができました。
毎年正月には、東京、日野市の高幡不動にお参りに行きますが、古いお札を治めに奥殿横を抜けると小さなお堂があり、上杉憲顕の墳と書かれています。
その案内には「上杉憲顕は氏憲の子、享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原に会戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した」というようなことが書かれていて、室町時代に足利成氏なんて将軍がいたかしら……などと、室町時代に疎い私はずっと気になっていました。
ですが、この本でその意味を知ることができました。
どうしても、幕府というと一人の将軍を頂点に全国をまとめ上げているイメージがありますが、室町幕府は京都の将軍が上位にあるものの、京都の将軍のほかに関東を治める鎌倉府がおかれ、大きく国を二分して統治していた格好になっていました。
そしてさらに簡単に説明すると、鎌倉府を治めたのが鎌倉公方と呼ばれ、その補佐に当たるのが関東管領でした。
室町幕府はその成立過程から争いが絶えず、その極めつけが「応仁の乱」です。
この本では、その原因の一つを応仁の乱より13年早く始まった関東の鎌倉公方と関東管領勢力の戦いである「享徳の乱」が飛び火した結果であるとし、さらには応仁の乱が嫌で政治に興味をなくしたといわれているあの足利義政が以外にもこの乱に多くかかわっていることが書かれています。
あなたの室町時代に対する見方が変わってくるかもしれません。
興味のある方は是非ご一読を。
文/ セレオ八王子店・Y.H
そしてさらに簡単に説明すると、鎌倉府を治めたのが鎌倉公方と呼ばれ、その補佐に当たるのが関東管領でした。
室町幕府はその成立過程から争いが絶えず、その極めつけが「応仁の乱」です。
この本では、その原因の一つを応仁の乱より13年早く始まった関東の鎌倉公方と関東管領勢力の戦いである「享徳の乱」が飛び火した結果であるとし、さらには応仁の乱が嫌で政治に興味をなくしたといわれているあの足利義政が以外にもこの乱に多くかかわっていることが書かれています。
あなたの室町時代に対する見方が変わってくるかもしれません。
興味のある方は是非ご一読を。
文/ セレオ八王子店・Y.H