


確実に読んだ本なのに、題名を見ても、作者名を知っても、本の装丁を確認しても、時にはあらすじを読んでさえも、どんな本だったか全く思い出せないことがある。
自分でも呆れるが、長篇でさえそうなのだから、短篇はもう忘れるのが当たり前になりつつある。
そんな中、ふとした瞬間に思い出したり、運よく家の本棚で見つけられれば、再び読み返す短篇もいくつかある。
『偶然の祝福』の中の「キリコさんの失敗」は、私にとってまさにそんな宝物だ。
キリコさんは若いお手伝いさんで、その風貌は決して品の良いものではない。雇い主の母親からもあまり気に入られていない。
でもキリコさんは、小学生の[私]の力強い味方だった。
失くし物をした窮地を救ってくれ、禁止されていたパフェをご馳走してくれ、何より父からもらったスイス製の万年筆でものを書くという、[私]が没頭していた喜びに最大限の敬意を払ってくれ、心から応援してくれるファン第一号だった。
そんなキリコさんは、ある日思いもよらぬ事件に巻き込まれる。
かれこれ二十年近く前、まだ子育て真っ盛りで、子どもが可愛いというよりただ毎日必死だった頃、キリコさんは強烈に私の心の琴線に触れた。
外見からは想像できないが、キリコさんは内面に人として清く美しいものを持っている。
相手がたとえ年端も行かない他人の子どもでも、その人の中に光るものを見つけ、苦労を惜しまずそれを慈しむという素晴らしい美点。
ああ、自分にもキリコさんのような人がいてくれたなら……いや、自分こそキリコさんのように苦労を顧みず、子どもたちを、誰かを、そっと支え続ける愛と強さを持てたなら……。
『偶然の祝福』は連作短篇集であり、このキリコさんに愛されのちに作家になった[私]の、人生における様々な場面が切り取られて、それはもう見事な小川洋子ワールドを完成させている。
おしまいに近づくにつれ一つ一つの短篇の区別がなくなって、まるで[私]が主人公の長篇小説を読んでいるような錯覚に落ち入る。
さて、小川洋子さんといえば今年、四半世紀前に書かれた『密やかな結晶』(講談社文庫)が、なんとイギリスのブッカー国際賞の最終候補作に残り大注目された。
そのおかげか、書店の限りある本棚からは影を潜めていてとても残念に思っていた本書も、この度重版された。
これはチャンス! 一人でも多くの人に、この愛すべきキリコさんに出会ってほしい。
文/ 新百合ヶ丘エルミロード店・Y.M
